32歳の誕生日を見届けて旅立ったおじいちゃんへ

 

2016年11月24日 

僕の誕生日を見届けるかの様に祖父が他界しました。

 

シンガポールで来月に控えたセミナーに向けた動画の収録中に

父親からLINEで「なくなりました」とのメッセージ。

 

亡くなったと聞いても自分の中では実感が沸かなくて

その時は涙も出なくて。。。

 

その日はそのまま眠りについたのですが

次の日は何年かぶりの頭痛で殆ど寝たきりになり

体は反応をしていました。

 

でも、自分の中で死を実感しないまま時間が過ぎて

お通夜とお葬式へいったという家族からの報告を受けて

 

それでもまだ自分の中では実感が沸かないまま。

 

ただ、ずっと頭の中では祖父と今までの事を考えていました。

 

これまでの事を思い出してはその時の事を考えて

今日、やっと自分の中で整理が付いた時に

涙が溢れてきました。

 

自分でも思いました「遅いよ」って。

 

祖父に対しての自分の感情が出てくるまで

これほどかかった事に情けないというかなんというか。

 

やるせない気持ちと

おじいちゃんへの感謝の気持ちが溢れてきました。

 

そして、それに向き合い切れてなかった自分の愚かさも。

 

この気持ちを忘れないように

ここに書き残します。

 

今日のブログはおじいちゃんに向けたものですが

それと同時に自分に向けてのメッセージでもあるので。

DSC01298

 

おじいちゃんへ。

 

おじいちゃんの娘である

僕の生みのお母さん

僕が生まれてすぐに亡くなってから

 

僕はおじいちゃんの家に行くことが減り

年に1度ある神社のお祭り 10日えびす

そして、僕のお母さんの法事のときだけで

 

僕自身がおじいちゃんと気づいたのは

小学校の時だったと思います。

 

たしか、5歳くらいの誕生日に到底扱えないような

高度なラジコンを貰ったりして

印象にはある人だったけど

 

その時は

 

「なんで、この人はこんなにしてくれるの?」

 

と思っていました。

 

 

僕も人のことはいえないけど

口下手で自分の事を話すのが苦手で

 

自分の事を自分で

おじいちゃんと言うことも無かったよね。

 

「わしの事、覚えているか?」

「うん」

 

って、いつもやり取りするんだから

僕がおじいちゃんと

気づくのに時間がかかるのも無理ないよね

 

って、言いたいけど

 

自分がやると言ったら

他の人の言うことを聞かないおじいちゃんが

 

僕が行った時には

すべて辞めて話に来ていたのは

 

今、思えば

もの凄い愛情表現なんだって思います。

僕は大事にされていたんだなって。

 

 

記念日に来たら

「何が食べたいんや?」って

いつも聞いてくれていたよね。

 

僕は何でも良いって言うんだけど

「絶対に食べたいものを食べさせたい」

って考えてくれていたのかな。

 

僕が選ぶまで

自分が美味しいと思ったものの選択肢を

ずっと出してくれていたよね。

 

連れて行ってくれても

やっぱり口下手で

 

「美味しいか」「まだ食べるか」

 

って事ばかり聞くから

僕は「うん」っていう事しか話した記憶が無いよ。

 

あ、でも「今、どんなことしてんのや?」って事は

毎回聞いてくれていたよね。

 

僕も口下手だったからあんまり話せなかったけど

一緒に居ることに幸せを感じてくれていた事は伝わっていました。

 

人前でも話せる様になった今なら

もっと沢山伝えられたのになって。

 

大学生になって神社の手伝いを

しにいくようになってから

 

会える回数も増えて

いつも「何日までここにいるんや?」と聞いてくれていたよね。

 

仕事の途中だった時に

「ちょっとついてきて」って

赤いハッピに軍手の状態で呼び出されて

ついていったら

 

人生初めてのエルメスだったのはいい思い出だよ。

 

赤いハッピに軍手でエルメスに入ったのは

後にも先にも僕だけじゃないかなって。

 

赤いハッピに軍手でエルメスの手提げを持っての帰り道

 

このスカーフじゃないと嫌なんだと

スカーフの肌触りの良さを教えてくれていたよね。

 

時計も好きで沢山貰ったね。

もう電池が切れてしまって使えないけど

 

文字盤が青色の重なりで

時間表示してくれる時計はとても気に入っていたよ。

 

いつも見たことのない世界を見せてくれていて

僕にとってはおじいちゃんなんだけど

 

来る人、来る人、皆が挨拶に来て

僕が孫だと分かると僕が恐縮するくらい

敬意を払ってもらうことになって

 

その度に「すごい人だったんだ」って思ったよ。

 

そういえば、新聞に載った時は

何度も見せてくれたね。

なんだか僕も誇らしい気持ちになったよ。

 

元々ITで最先端ばっかり追っていて

古いことにはあまり興味が無かった時は

その凄さを本当の意味では理解できていなかったけど

 

海外に出て、日本の良さをしって

日本文化の事を調べていくうちに

 

どれだけの事をしてきた人なのか理解できるように

やっとなってきたんだ。

 

海外に出てから会うことが出来なくなって

送った手紙も何故か届かなくて

 

やっと会えたと思った時には

あまり話せない状態で。

 

それを見た時に戸惑って

なんて声かけたら良いのか分からなくて

 

「次に会う時には」って色々考えていたんだけど。。。

 

あと3週間だったんだけどなぁ。

東京でセミナーやって

 

「これから日本と世界を繋ぐから

 その為に日本の事をもっと学んでいく」

 

って話をしに行くつもりだったんだけど。

 

でも、やっぱり目の前にしたら

僕は昔と同じように

話することは出来なかったのかもしれないね。

 

でも、おじいちゃんの事だから

頑張ったんだけど誕生日までだったんだよね。

 

もっと、帰れるように

創り上げられていたらと良かったのにね

ごめんなさい。

 

居なくなってから気づくことが多くて

自分を責めたくもなるし

 

「あぁ、あの時こうしてれば」

 

って沢山でてくるよ。

何回も謝らないといけない。

 

今でこんな状態だから

 

僕もこれから年を重ねて

おじいちゃんになってから

分かることもあるんだろうな。

 

その度におじいちゃんを思い出すんだろうな。

その時はもう少し話してくれるのかな僕の中では。

 

こうして書いている事を

なんで言葉で伝えられなかったんだろう。

居なくなってから出てくるんだろう。

 

やろうと思ったら簡単なことなのに。

 

って、僕が後悔をしてたら安心して眠れないよね。

 

だから、誕生日の度に思い出して

これから、同じ思いをしないように努力します。

 

思いのまま書いて書きながら涙を流して

やっと自分の気持ちを出せたかなと思います。

 

最後の最後は一緒にいれなかったので

代わりに天国で自慢の孫と言える様にこれから活動していきます。

 

なくなってからここまで5日もかかるし

自分の事をちゃんと伝えきれていなかった孫だけど

 

ずっと大事にしてくれて

ずっと愛情を注いでくれて

 

ありがとう。

 

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